沖縄県も梅雨がそろそろ開ける頃になってきました。
来週の6月23日は、沖縄県では慰霊の日となっています。
今日は、あまり知られていない戦時中の沖縄市の様子を紹介します。
沖縄地上戦のおさらい
沖縄島攻撃に向けて地図を見ている兵士たち1945年3月29日/写真:沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」アーカイブより
昭和20年、アジア太平洋戦争の中アメリカ軍は3月26日に慶良間諸島へ上陸開始、攻撃拠点を構え4月1日には沖縄本島の中部地域西海岸から上陸します。
現在も、北谷町にある宮城海岸横の馬場公園は上陸の地としてモニュメントがあります。その他、嘉手納町の比謝川河口、読谷村の渡口海岸などの昔から港として栄えていた場所は、米軍にとっても上陸作戦のポイントとなりました。
日本軍は、建設していた嘉手納町にある中飛行場(現在、嘉手納空軍基地)を放棄し、南部へと移動。沖縄市と北中城村の間にある島袋~比嘉の地域に防衛線を張りますが、熾烈な攻防のあと嘉数高台の陣地へと退避していきます。
上陸からわずか五日ほどで米軍は東海岸の泡瀬地区まで侵攻。
沖縄本島を南北に分断することに成功しました。
そこからものすごい勢いで中飛行場を中心に、資材や兵器の集積所と収容所の建設に取り掛かり、収容所は東海岸を北へ上るように名護地域まで設置していきました。
沖縄戦の米軍の拠点。大事なポイントとして沖縄市はこの時から米軍と共存する生活がスタートしたのです。
沖縄市に大きな収容所「キャンプ・コザ」
収容所内で小学校が再開する1945年6月/写真:沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」アーカイブより
米軍は上陸する前から綿密な沖縄本島の攻撃作戦を立てますが、その時の地図には既にKOZAの名前が書かれていました。
一説には、古謝のうちなーぐち読み「クジャー」や胡屋のうちなーぐち読み「グヤ」を書き間違い、聞き間違いなどの説があり、また細かく分かれている沖縄の集落を一まとめで「KOZA」として新しく呼び名を付けたなどの説があります。
キャンプコザでは、収容所生活が4月2日には始まります。食料や衛生面での不便はありますが、砲弾にさらされて命がなくなる心配がなくなりました。
収容所内で小学校が再開する1945年6月/写真:沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」アーカイブより
沖縄地上戦の6月
一方、4月から6月にかけて戦況は悪化していきます。
海軍壕では、攻防戦が続いていますが牛島中将は「もうあと半年ほどの食糧しかない」と本部に電文を送ります。
また、沖縄県知事の島田叡知事は、親しくしていた大田実少将に頼み県知事として最後の電文を送ってもらいます。
「・・・沖縄県民、斯く戦えり。県民に対し、後世、特別な御高配を賜らんことを」
という文章は有名です。島田知事はその後、南部へと逃げていきますが未だにどこで亡くなられたのか分かっていません。
6月13日には大田実少将が、6月22日には牛島満中将がそれぞれ自決されます。
そして、米軍側も6月18日にバックナー中将が糸満市で指揮中に戦死となります。
その後、8月15日の玉音放送をもって、日本は戦争を終えますが何もかも破壊された沖縄では、玉音放送を聞いた人は収容所にいる人や、一部の方達でした。アメリカ軍が、聞けるようにと手配したようです。
9月7日、沖縄市の森根にて「降伏調印式」が行われ、やっと沖縄の地上戦は終わりました。
沖縄市-市民平和の日
https://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2519
1945年2月、米軍の上陸を前に撮影した日本軍第32軍の集合写真。牛島中将、大田少将も写っている
/写真:沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」アーカイブより
収容所生活の6月
収容所は、日々収容人数が増えていきキャンプコザのある収容所ではいち早い「戦後の生活」がスタートしていました。6月には古謝小学校の開校、村長選挙、7月には学校再開と、南部の激戦とはかけ離れた時間が流れています。
ただ、収容所生活が楽かというとそういうわけではなく、人口が増えるにしたがって食料の確保は深刻で、衣料品なども圧倒的に足りず、沖縄県民は節制の続く生活から慢性的な栄養不足で、栄養失調で命を落とす人もいました。
それでも、砲弾にさらされないという事はたとえようのない安堵感はあったかと思います。早くに収容所生活を始めた人の中からは、米軍に協力し「仕事」を始めている人もいました。
コザにて病院建設に就いている地元の人1945年5月15日撮影/写真:沖縄県公文書館所蔵「写真が語る沖縄」アーカイブより
当時の6月23日を思い出す日「慰霊の日」
沖縄市には、全国でも珍しく無傷の状態で「奉安殿」と「忠魂碑」が登川の方に残っており、市民がいつでも訪れることができます。
沖縄市登川に残る忠魂碑/沖縄市観光物産振興協会撮影
今のように通信手段のない時代、時の運に命を預けなくてはいけない人々を思うと戦争の愚かさを改めて実感します。
慰霊の日は字のごとく、亡くなられたすべての方々に思いをはせ哀悼の意を込めて黙とうをささげたいと思います。
また、私たちの住んでいる沖縄市の役割の大きさと、昭和20年4月から始まった現在に続く米軍との共存生活と分断の重さを考え、何の不安もない平和な日を迎える事を祈念し結びたいと思います。
本文中に使用した写真は
沖縄県公文書館のデジタルアーカイブ「写真が語る沖縄戦」より転載しています。
http://www2.archives.pref.okinawa.jp/opa/searchpics.aspx
また、沖縄戦と沖縄市の沖縄戦については沖縄市の「市民平和の日」公式サイトを参考にしました。
沖縄市民平和の日公式サイト
https://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/
現在、休館中ではありますが緊急事態宣言が終了しましたら、沖縄市戦後文化資料館「ヒストリート」ではアジア太平洋戦争をテーマに企画展を行う予定です。
「Webヒストリート」
https://www.histreet.okinawa.jp/histreet/FAA10/init#gsc.tab=0
来週の沖縄市What!は
「沖縄市のひんやりスイーツ」の予定です!
お楽しみに!